マーケティングと私生活

カフェYouTuberとして

カフェのYouTube動画を作り始めて2年くらいになる。ということはコロナが本格的になり、やがて人々が自粛を強いられ、あれだけ賑やかであった街が静かになってから2年ということである。2年という間は、仕事をしつつ休日は電車に乗ってカフェに赴き動画を撮ってはMacで編集、final cutを貪るように使用するという日々であった。

動画をアップロードすると、日本中の人が、いや世界中の人が自分の動画に関心を寄せ始めたことが手に取るようにわかる。だんだんと再生回数は増え、後追いするかのようにチャンネル登録者数も増えた。毎日確認しても流石に変化はないことに焼きもきしつつ、それでも1週間に1度確認して、今週は◯人増えた!!と喜んで週末を迎えるのであった。

自分のアカウントを全て何かに特化する、という常道

SNSでもYouTubeでもなんでも何かに特化する、専念する、専門化させるというのはいろんなHowto系サイトを雑駁に眺めてみても、自分のような凡人にも理解できるほど共通化された世の中の攻略法である。ビジネスにおいても同じようなことが語られている。町の歯医者はかき氷屋をやらないし、ラーメン屋はスポーツジムの経営などやらない。

SNSやYouTubeに話を戻そう。確かに、世界遺産のことを語っている動画やサイトが突然餃子のことを語り出したら、世界遺産に興味を抱いた視聴者、閲覧者は興醒めすることは想像に難くない。

これには自分もなるほどと感じる部分があった。自分のやりたいことについて、ある種の制約条件を設けて、まだ見ぬ、いや永久に見ることのないもある「視聴者」、言い換えればお客さまの視点に立って、お客さまが求めているニーズに対応するサービスのみを提供する。求められていること以外は提供しないし、提供すれば興味を失われて戻ってこない。

自分もこれを踏まえて、カフェのことばかり呟いていた。

いやちょっと待った。

時折、つい半年くらいまではラーメン動画もアップしていた。しかも上記の事情をわかっていながら。

カフェ動画の合間には豚星という二郎系はじめ、ラーメン動画、山形の動画も度々配信していたのである。度々チャンネル登録者数が減っていたことがあるが、これはカフェの動画を好んでフォローしていたが突然ニンニクどっさりの動画を見せられて、または逆も然りだろう、彼らががっかりした結果だと思う。しかしながらそのような王道に反する愚策は必ずしも無益ではなかった。ラーメン、特に二郎系はカフェよりも再生回数自体は稼げる(チャンネル登録者数はあまり増加しなかったようだが)。YouTube初心者としては、少しでも世の中からなんらかの好意的な反応があると多大な喜びを感じる生き物のようで、カフェとラーメンは決して良い相関関係ではないことを認識しつつ、ついついせっせと東急東横線の元住吉にある豚星という二郎インスパイア系のラーメン屋に足を運び、店の外まで続く行列にうんざりしながらも再生回数のためとまるで呪文のように心の中で唱えて麺を啜ったものだ。周りの客からは「なんか撮影している奇特な奴」と思われ、やや緊張しながらも撮影のためと耐え忍びながら。

翌日の朝は、たいていはラーメンの塩分で顔がパンパンに膨らんでいた。その顔を見てややうんざりしていたものだが、顔だけではなく体の中で内臓、皮膚全てに必要以上の栄養を摂りすぎている弊害は無意識のうちに自分を蝕んでいただろう。

流石に自分の健康という観点で、ラーメンで再生回数や登録者数を増やしたくないと思い、今のところカフェに専念している。健康もそうだが、自分のあるべき姿として、カフェに専念している自分の方が好きというなんとも正直な面持ちもある。

このように、今までカフェの動画に専念する日々は続いていたのである。

それによって、カフェしかアップしないYouTuberとして徐々に認知度を高め、チャンネル登録者数も毎週過去最高の増加数を更新し続けていた。やはり世の中の常道というものは正しく、気流に一度乗り込めばあとは勝手に次のステージへと昇華させてくれるものだと思っていた。しかし、そんなものはただの勘違い、思い違いなのであると気付くのに時間はかからなかった。

YouTubeのインプレッションが突然下がる

突然に不幸はやってくる。いや、不幸は突然訪れるからその存在を認識されるのだ。不幸というのが予測できていれば、人間は不幸をなんとしてでも避けようとするので不幸は大概の場合発生などしない。傘を持たず雷雨に打たれ体を雨がまとわりつくことがわかることがわかるのであれば、傘を持つであろうし出歩かないという選択も十分に取りうる。

このように予測できないことは突然の雷雨のようにやってくる。

週間のように眺めていたYouTubeのアナリティクスであるが、ある週のこと。毎週のように増加していたチャンネル登録者数に変化がない。先週にはうれしく眺めて把握していた登録者数となんら変わりがない。そうなると人間じゃ貪るようになぜだ、と原因を探るのである。動画を見てみると、1番の変化は、人気の動画の再生回数が増加していなかったことにある。

以下は自分の中で最も再生回数の多い動画です。

上記の動画の伸びが全くなくなっていたことで自分のチャンネルを訪問する人が日本は愚か世界からもいなくなり、突然の閑古鳥が鳴くような有様であった。

そうすると自分が仕事の合間を縫うように活動していた動画編集のやる気も、まるで泡が一気に水を垂れ流されるかのように消滅してしまうものである。人間誰しも一種の承認欲求があり、承認され続けることで何事も継続できるというのは人類の長い歴史の中での共通認識である。

突然に世の中から承認されなくなったら、承認を得ていたコミュニティから離れようとする。ある人間は職場からの転職を試みる、ある種は学校を転校する、友人のグループから離れるなどなんらかの距離を自ら生む。それが無理でも少しでも距離を作り出そうとする。

再生回数がなぜ下がったのかを深掘りしたところ、インプレッション数、つまりYouTube上でとある視聴者が検索なり画面をスクロールするなりで自分の動画が紹介されることが大きく減少してしまったのである。すぐさまその理由を知りたくなり、Googleで検索したところ、様々な要因が様々な法人、個人問わず推測を述べている。全てが正解とは思えぬが、要約すると「Googleの基準に沿わない何かを行った」とのことであった。これは、言い換えれば視聴者層の満足度に応えられなかったことということであり、自分の時間を惜しんでまで、少ない頭で作成した動画が表示されないというまさに不幸を招いてしまったのである。対応方法はわからぬままである。

自分がやりたいことは何かを追求することはやめた

動画のインプレッションが突然下降してから1ヶ月以上の時間を経ている。今だに自分に幸運であった水準に達することがない。以前の状態に戻ることを期待してアナリティクスを除いては数値が低下しているという現実を目の当たりにして、最近は一種の諦めが自分の心の中に漂っている。もう以前のように戻ることはないのだろうとも考えている。

そうすると、もう開き直るしかない。開き直るしか自分のように凡人にはできることはない。

ただ、ここで開きなおると言っても、不思議なことにYouTubeをやめるという選択肢は自分には全く持ってなかった。自分にとって、承認欲求を否定されても続けることが自分の生きがいになっているからであることに気づくことに要した時間は、ウサインボルトの100mのレコードよりも早かったことは容易に想像できるほどだ。動画編集のやる気は一時的に失われたものの、回復は早かった。

自分はいろんな「アカウント」がある。

Twitter(@life_steady)instagtam(@endlogue_)SNSのアカウントがあるものの、自由なことを呟くと決めた。YouTubeに関しては、引き続きカフェだけと決めている。自分にとっては撮影に労力を要するので、やはり自分に興味ある事柄しか取り組めない。よってSNSとYouTubeの思想概念は矛盾するものではない。

続けることこそが目的

承認欲求は確かに何事にも得難いものである。人間の生きがいなんでそんなものだと言っても決して大袈裟ではないとさえ思える。しかし、承認欲求は得られなくとも続ける意義がある。やり続けることで新たな自分の見えぬ血となり肉となる。この街のこのカフェの、この人の、このメニューの…全てが自分の対外的な魅力を高めるための、ひいては承認欲求を得るための種のようなものだ。

これは使い古されているマーケティングの鉄則からは外れていることは重々承知はしているものの、回りくどい道を辿っては必ずはまた戻ってくるように思える。

あの時、この判断は間違っていなかったと感じるまで、持続させることがビジネスなのである。

そして、ビジネスにおいては専門化こそが王道であるが、私生活にまで波及する鉄則ではないのである。

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この記事を書いた人

カフェが大好きな写真家。YouTubeでカフェに関する動画を配信。主な出没場所は白金、渋谷。

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